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大学のこれからを考える

Policy Seminar

第2回学術政策セミナー
講演録公開なんのために研究をするのか-社会・学術への貢献

2016年6月29日(水)【講演録公開】
なんのために研究をするのか-社会・学術への貢献
開催日時
  • 第2回学術政策セミナー
  • 2015年11月5日 10:00-12:00
  • テクノアライアンス棟1F アライアンスホール
開催概要

運営費交付金が削減される中で、研究を進めるためにますます外部資金への依存度は高まっていますが、そもそもなぜ研究を進めるのかということを立ち止まって考える機会は多くありません。そこで今回のセミナーでは、まずは民間財団の事例を参考に、限られた予算の中で研究助成プログラムをどのように策定しているのかについて学び、提案を行う側はどのようなことを意識して提案を行うことが望ましいかについて理解を深めました。次に、研究者は研究の社会的意義をどのように考えて研究を行うことが望ましいかについて話題提供いただきました。その後、参加者と講演者とのディスカッションを行いました。

講演1:助成財団における助成プログラムの策定-配分からインパクトへ-

HondaShiro
本多史朗氏

公益財団法人トヨタ財団 プラグラムオフィサー

プロフィール:在フィリピン日本大使館専門調査員として、日本のポピュラー文化を用いての国際交流の提言づくりに携わり、トヨタ財団では、ミャンマーなどでの草の根古文書保全の枠組みづくりを行った。(公財)助成財団センターにて、助成手法についての体系的なテキストづくりと普及を担う。現在は、トヨタ財団「復興公営住宅におけるコミュニティ作り」プログラムを担当。最近では「原子力被災者、津波被災者、そして旧住民によるコミュニティづくりに向けて」(トヨタ財団広報誌ジョイント第18号)を執筆。

はじめに

本日は、助成プログラムとその周囲に起きつつある変化とそれが意味するものについて、三つのポイントに分けて紹介します。

  1. 助成をすることに導入された三つの新たな考え(アウトカム、プログラム、ストーリー)
  2. 三つの新たな考えが、助成プログラムの主な構成要素(プログラム作り、プログラム運営、アウトカム作り)の作業にもたらした変化
  3. 助成プログラムの運営担当者(プログラム・オフィサー)の職務に生じつつある変化
1.助成をすることに導入された三つの新たな考え(アウトカム、プログラム、ストーリー)

助成をするという作業の中身は、最終的にお金の出し手が何を求めるかということによって決まってきます。我々はそれを「出捐者」とか「出資者」というように呼んでいますが、一番有力なステークホルダーになるわけです。これが、過去20年の間に非常に大きく変わりました。20年前には、「大過なく助成金を配分してほしい」というのが、このお金の出し手の基本的な希望でした。トラブルなしにお金を配ってくれれば、それで良し、ということです。ところが、それが現在は、「助成金の原資を出す以上は、つぎ込む助成金で社会に変化を引き起こしてほしい」というように変わってきています。こういう変化が起きてきた背景には、広くは、ベルリンの壁崩壊以降のグローバル化の進捗があります。さらに、具体的には、出捐者、出資者である日本企業の経営環境が格段に厳しくなったことが挙げられます。それから、大学に代わる主体として、課題解決に特化したNPOという組織が現れたことも考えられます。また、インターネットとパソコンの普及により、変化を引き起こすイメージのプレゼンテーションが格段に容易になったことも挙げられます。この三つの要素が相俟って、先ほど述べたように「助成金の原資を出す以上は、助成金で社会に変化を引き起こしてほしい」ということが主流になってきたと考えられます。一言で言えば、「配分」から「変化」へという考え方へ、変化が生じたということになります。
この考え方の中から、三つの新しい考え方が我々のような財団に導入されることになりました。①アウトカム、②プログラム、③ストーリー、というものです。

①アウトカム
アウトカムないしインパクトという考え方を単純に定義すれば、「助成金を出した結果として、社会に変化を引き起こす」ということになります。社会の変化といった場合、具体的には、次のようなものがイメージされています。

  • 新しい法律の制定や既存の法律の改定
  • 新しい公的な制度‐補助金等の制定や既存のそれの改定
  • 疾病率等の公的指標とその公的指標が表している何らかの現実の改善

こう書くと簡単ですが、助成を行う人や組織にとっては、決定的な変化でした。それまでの助成金の結果についての考え方というのは、助成金を出した結果としては、全体の1割か2割当たればいいというものでした。しかも、論文のようなアウトプットやプロダクトが出てくればそれで充分で、後は"外れ"でもいいという非常に気楽なものだったわけです。ところが、まさにこのアウトカムやインパクトというものが入ってくると、法や制度、指標というものを考える必要が生じてきました。この考え方の違いというのは、非常に大きかったわけです。アウトカム、インパクトは、細かな概念なので、これ以降は同じ意味として、「アウトカム」と統一します。

②プログラム
以前から、助成金プログラムという呼び方は使われていました。ところが、それは、新しく導入されるプログラムとは、質として全く異なるものでした。以前のものは、非常に抽象度の高いテーマというのを掲げて、その下には、方向性が異なるプロジェクトが混沌として存在する、というイメージでした。それに比べて、アウトカムという考え方とともに入ってきた、この新しいプログラムというのは、もっと実質的なものです。その特徴については、次のようにまとめることができます。

  • 社会的に重要、かつ具体的なテーマがプログラムの中心に据えられている
  • プログラムの傘下のプロジェクト群のそれぞれのテーマは、上のプログラムの中心テーマと必ず濃密な関係を持っている
  • 個々のプロジェクト単位の成果物とは別の次元で、プログラム単位で成果物を出し、アウトカムを作ることを狙う

一言で言えば、具体的なテーマの解決を通じて、社会を変化させることを目指し、幾つもあるプロジェクトというのが一体となって前進してくという種類のものでした。これが、次のストーリーという考え方につながっていきます。

③ストーリー
ストーリーとは、一言で言えば、「プログラムの中心にあるテーマ=課題」が、助成金を投入した結果として解決され、社会が変わるという流れを抽象化して説明するための道筋のことです。「変化の理論」と呼ばれることもしばしばあります。これは、図1のような図式で説明することができます。

  本多氏講演資料1
図1

なぜ、このストーリーが重要になったのでしょうか。要するに、「助成金を出したら、どの課題が解決されて、どういうふうに社会は変わるのか」ということについてのわかりやすい説明を、原資の出し手である出捐者が求めるようになったからです。

以上の三つの新しい考え方を、20年前と比較すると図2の表のようにまとめられます。

  本多氏講演資料2
図2
2.助成プログラムの主要な構成要素に生じつつある変化

ここでは、助成財団でどういう作業をやるのか、どういう変化が起きたのか、ということをお話しします。「プログラムを作る」ということに関しては、20年前は、「テーマ設定だけ」が助成プログラムを作るときの基本的な作業でした。ところが、現在は、「ストーリーを作らなければならない」というように変わってきました。以前の形式的な助成プログラム(以後、「旧世代助成プログラム」と呼ぶ)の場合は、何かテーマを見つければ、それでプログラム作りは終わっていました。どういうテーマについて助成金を出すのか、どういうテーマについて皆さんからの提案を募るか、ということで、はっきり言えば、作業は終わっていたわけです。ところが、現在の新世代のプログラム(以後、「新世代助成プログラム」と呼ぶ)の場合は、このストーリー作りを行わなければならないのです。具体的には、「どういうアウトカムを出すのか」、言い換えれば、「どういうふうに社会を変えるのか」、それから、「社会を変えるためには、どのような枠組みが方法論として必要なのか」というところまで考える必要が出てきました。

ここで、URAの方には特に強調しておきたいのですが、社会の法律や制度といった枠組みが変わることを考えていくと、テーマ自体の質が変わってきます。単純に言うと、「旧世代助成プログラム」で取り上げられることが多かった、抽象度が高く、かつ具体的な空間にあまり焦点を当てていないようなテーマだと、法や制度というのは、変わらないわけです。すると、その変化というのを観察することは非常に難しいことです。はっきりした変化というのは、具体的な空間において具体的なテーマに取り組むことで、初めて起きるものです。この辺りは、純粋に基礎的な研究をされている方は、ちょっとぴんとこないかもしれませんが、ある程度具体的な応用的な研究をされている方に対しては、非常に重要な点で強調しておきたいと思います。具体的な法や制度が変わることから出発して、テーマと方法論を考えて、ストーリーを組み立てると、助成プログラムが何を狙うかということがはるかにはっきりしてきます。これがまさに、お金の出し手である出捐者が求めるものなのですが、それと同時に助成プログラムを運営する側にも大きな影響を与えました。ここで、ある財団の「旧世代助成プログラム」と「新世代助成プログラム」の例を挙げて比較してみましょう。

  本多氏講演資料3
図3

図3は、トヨタ財団の例ですが、左側のほうが、『くらしといのちの豊かさ』という「旧世代助成プログラム」で、だいたい10年ほど前にやっていました。右側のほうが、『東日本大震災の被災地の復興公営住宅におけるコミュニティづくり』という「新世代助成プログラム」です。
それぞれ比較しますと、まず、「旧世代助成プログラム」のテーマというのは、抽象度が非常に高くて、その解釈は申請者に委ねられます。まさに、哲学の人も応募できるし、それから医学の人も、経済学の人も応募できるというテーマなわけです。ところが、「新世代助成プログラム」のテーマとなると、復興公営住宅かつ東日本大震災の被災地、というように具体的、空間的にはっきり特定されています。しかも、復興公営住宅を対象にするというかたちでも、絞りをかけていますので、申請者は、勝手な解釈をすることができないわけです。
それから、方法論①について、まさに皆さんのような大学の関係者が具体的に行われるようなプロジェクトの場合でも、「旧世代助成プログラム」では、どういう方法論を選択するのかということは、申請者に委ねられます。フィールドワークでも構わないし、ラボでも構わない、文献調査でもあり得るわけです。ところが、「新世代助成プログラム」だと、必ずNPOと行政、被災者の人たちと連携を行う、というようにプログラムの側で枠を固めていきます。
方法論②は、プログラムを運営する側、お金を出す側の方法論ということになりますが、「旧世代助成プログラム」は、特にこれはありません。我々のような担当者が時々、皆さんのような助成金を取られる人たちを訪問して、散発的に話を聞くというぐらいでした。それが、「新世代助成プログラム」になると、研修会や定期連絡会、報告会などを2か月毎に開催して、共有を徹底します。要するに、「情報を横に流しなさい」ということをこちら側で強烈に要求していくわけです。大変失礼なのですが、大学の研究者の方を見ていると、ある分野でやっていることが、近隣の分野と関係があることはあっても、横の情報の共有があまりうまくいかないところがしばしばあります。これは、やはり競争心が働いていますし、自分が苦労して開発した技法や知見というのは、「共有したくない、自分のところで独占したい」という気持ちが働くのでしょう。しかし、助成金を出す側から見ると、非常にややこしい習性です。要するに、あるスキルとかノウハウというのは、どんどん共有していったほうが、研究全体あるいはプログラム全体が、前進すること多いのですが、なかなか実行してくれません。そこで、今、財団側は、定期的に連絡会や報告会等を開いて、助成金をもらっている人たちを全員集め、今そこで何が問題になっていて、どういうスキルを使っているのか、ということを共有するかたちで、要求してくるわけです。
最後の変化の部分であるアウトカムについてですが、「旧世代助成プログラム」は、個別のプロジェクトの成果物に留まります。ところが、「新世代助成プログラム」は、まさに、私が今している作業なのですが、この復興公営住宅で、コミュニティ作りをやるのであれば、どういうことに気を付け、何をやるべきで何をやるべきではないのかをまとめた手引きを作成して、配布し共有することをやっています。

このように、テーマ、方法論、アウトカム全てにおいて、「新世代助成プログラム」のほうがはっきりしています。しかも、さらに重要なのは、プログラムを作る側の主導権というのが、表に出てきていることです。その一方、テーマを設定すればそれで済んでいた「旧世代助成プログラム」と比べると、プログラム作りにはるかに手間と暇がかかります。また、ストーリー作りという能力を求められるようにもなってきました。

もう一点、付記しますが、この辺りもURAの方々には、心にとめていただきたいお話であります。まず、プログラムを作るためには、根幹になるストーリーを作ります。そのためには、その素材となる情報を手に入れなければいけません。その情報は、図4のようなステークホルダーから集めることになります。

  本多氏講演資料4
図4

担当者がいるとすれば、行政の担当部局、それから同業の民間助成財団、研究機関、マスメディア、NPO、そういったところから、さまざまな情報を求め集めます。要するに、何が重要な課題であって、それを解決するために何が必要なのか、何をなすべきか、ということを割り出していきます。ここで、強調しておきたいことは、ストーリーを作る際に、役に立つ情報を提供してくれたステークホルダーの人たちは、最後に社会を変えようというときにも、必ず強力なパートナーになるということです。つまり、あるテーマについて情報をたくさん保有しているステークホルダーというのは、当然、そのテーマの解決に関わってくるわけです。特に、そのテーマを担当している行政の担当部局というのは、この傾向が強いと思います。

次に、プログラムの運営についてお話しします。助成プログラムの運営は、「公募」、「選考」、「フォローアップ(モニタリング)」の三つのパーツに分けることができます。「新世代助成プログラム」で起きた変化を一言で言えば、全てのパーツを、申請者(助成対象者)に対しして、ストーリーを刷り込むためにプログラムを運営する側が用いるようになりました。これを図5の表で整理してみます。

  本多氏講演資料5
図5

要は、アウトカムというフィナーレに向けて、ストーリーに沿って、共通の舞台の上で、働いていくという意識を公募の段階から、申請者あるいは助成対象者に持たせるということです。併せて、舞台の上で、勝手な演技をしそうなものは、そもそも舞台から去っていただきます。

冒頭で触れたように、出捐者の考えは、「社会に変化を引き起こすために、原資を出す」という方向に変わってきています。それに対して、助成金を受け取るNPOや研究者の側の意識は、依然として、「やりたいことをやるという自己実現のため」、「実績やキャリア作り」、「理念的な夢の追及」といったところに留まっていることが多いです。ストーリーに応じて、自分のプロジェクトをステップアップしてくれるNPOや研究者もいる一方、ある割合で、そのようなストーリーを示されること自体に反発を覚える組織や人もいます。このような組織や人には、旧来の、配分重視の「旧世代助成プログラム」の助成金を取得してもらうよう助言することが大事です。

一方、「旧世代助成プログラム」で行われたプログラム運営の作業では、公募については、インターネットによる受け身の公募でした。書類の選考については、プロジェクト単位の完成度を重視していました。そして、フォローアップについては、個別のプロジェクトの進み具合を確認するだけでした。「新世代助成プログラム」は「旧世代助成プログラム」に比べると、格段に複雑になっています。このように複雑さを増してきた作業をこなす人材はどのようなものなのかについては、また後ほどお話しします。

次に、非常に重要な、アウトカムを作り出していくための作業について説明します(図6)。つまり、どうやってこの世の中を変えていくのか、ということです。

  本多氏講演資料6
図6

まず、成果物を作成するための情報を集めます。そして次に、成果物の利用者の割り出しです。これは、非常に重要で、先ほど述べたステークホルダーの話と関係してくるのですが、「誰がその成果物を使うのか」ということを、見定めなければいけません。それから、成果物の発信、普及を行います。その後、アウトカムへと、つまり、社会が具体的に動いていくという流れになります。

ここからは、部分に分けて説明していきます。まず、情報収集ですが、アウトカムを出す際の梃子として使うのが、助成プログラムの成果物ということになります。これは、通常、提言や手引き、ハンドブック等の広く普及、共有させることができる性格の印刷物、もしくは、映像となります。学術論文のような狭い範囲でしか読まれないようなものは、このようなプログラム全体の成果物とは言い難いと思ってください。情報というのは、広く普及することによって世の中が変わっていく、という一般的な法則があるので、できるだけ広く流れていってほしいです。成果物、印刷物、映像などを作るための情報を与えてくれるのが、プログラム傘下のプロジェクト群と、それを実施している助成対象者ということになります。実際に情報を集めてみるとわかりますが、これは非常にやりやすい作業です。同じ具体的なテーマという土俵の上で活動を行っていますので、情報のソースは多いうえに、クロスチェックが可能となります。今、私が担当している「復興公営住宅におけるコミュニティ作り」のプログラムの場合は、助成を開始して3か月程度で、次のような重要なポイントが割り出せました。

  • 復興公営住宅における自治会づくり
  • 復興公営住宅の周囲に住む旧住民の自治会との信頼関係づくり
  • 自治会が集会を開いて、催し物を行う、あるいは、旧住民との交流場である集会所の整備

このように、具体的なテーマで、社会を変えようというプログラムを運営していくと、重要なポイントを割り出せるのが非常に早いということです。

次に、成果物の利用者の割り出しについて説明します。アウトカムを出すためには、成果物の利用者の割り出しは、欠かすことができません。法や制度の設立や改定、公的な指標の改善のためには、役所、保健所などの行政機関を動かす必要があります。ところが、これらの公的な機関の中の部局というのは、非常に複雑です。どこの部局のどの担当者が、自分たちがやっているテーマに関心を持っているのか、担当しているのかは、なかなかわかりません。これについても情報を集める必要があるわけです。場合によっては、直接の部局とは関係のないところに、キーパーソンがいるということもあります。例えば、官房とか総務などの部局に、実際に強い影響力を持っている人がいることがあります。この点についての聞き取りを重ねることによって、初めて成果物とそこに含まれている情報を欲している人を割り出すことができます。また、もう一つ重要なことは、成果物に収められている情報を知りたいと思っている人たちは誰なのかが明らかになることによって、初めて、はっきりした方針で、成果物を編集することができます。例えば、文章を読むことに慣れた中央省庁の上級の行政官が情報を利用するのか、それとも、地場の社会福祉協議会の現場スタッフが情報を利用するのかによって、成果物の編集の方針は、全く違ってきます。前者の場合ですと、抽象度の高い概念や複雑なセンテンスを満載した提言書でもよいでしょう。後者の場合は、写真入りのわかりやすい文体で書いた短い手引きの方が好ましいわけです。

それから、成果物の発信についてですが、ここまで来ると、後は単純作業の繰り返しで、根気の勝負ということになります。割り出した情報の利用者である行政機関の担当者のもとに、先ほど述べたような提言書や手引きを届けることになります。さらに提言書や手引きについての勉強会や研修会を、担当者やその周囲を巻き込んで開くことができれば、さらに効果的です。確かに文章というのは、それだけでも強い情報の伝搬を可能にしてきますが、実際に口頭でプレゼンテーションを行ったほうが、はるかに情報は伝わりやすくなります。これに関して、もう一つ重要なことがあります。URAの方々には、特に心にとめていただきたいお話です。担当者に情報を提供すると、必ずその見返りに新たな情報を手に入れることができます。「これを教えるから代わりにこれを教えてくれ」ということが可能な関係が作れてくるわけです。このように、情報のバーター関係を作り上げていくことが、成果物を発信して、アウトカムを出すときには、非常に重要になってきます。

実は、この段階まで来ると、アウトカムというものは、出しやすくなってきます。行政機関は、常に課題解決のための新しい事業を企画立案する際の根拠となる情報を求めています。しかも、行政機関というのは、必要な情報を収集し、加工するネットワークとスキルを持っていないことがほとんどです。特に地場の自治体は、それだけの力を持っているところは非常に少ないです。この隙間に対して、助成プログラムの成果物と、そこに含まれている情報を、うまく結びつけることができると、意外なほど新しい制度や旧来の制度の改定に繋げることができます。ただし、法律の領域になると、議会が関わってきますので、一つハードルが上がってきます。アメリカの財団には、議会になんとかして働きかける専門のスタッフがいます。日本にはいませんが、アメリカの場合は、役所に働きかけるより、議会に働きかけたほうが早いということで、議員に対して説明するプロフェッショナルがいます。

3.助成プログラム担当者(プログラム・オフィサー)の職務に起きつつある変化

これまで述べたような新世代の助成プログラムの担当者は、「プログラム・オフィサー」と呼ばれています。URAのカウンターパートだと思ってください。ここでは、プログラム・オフィサーには、どのような能力が求められているのかについてお話しします。
まず一つ目は、現場を含めた広い空間を歩き回ることができるフットワークが必要です。一つの事務室だけにいるようなプログラム・オフィサーというのは、役に立ちません。やはり、現場に行って、現場のお金をもらっている人と話をすることが大事です。それから、それに関係するステークホルダーをしらみつぶしに歩くフットワークも絶対に必要です。
二つ目は、行政、メディア、NPO、(場合によっては企業も含む)それぞれの固有の運営ロジックを持っている複数のセクターの関係者に向けて、自らの意図を説明し、情報を円滑にとる能力が必要になります。ここからは、もう少し深く説明します。今回、大学に所属されている方が多いので、URAの方など、企業との接点を持っている方がおそらくいらっしゃると思います。すぐにお気づきになるのは、企業には企業のロジックがあって、行動の原理というものがあります。そして、同じく大学には大学のロジックがあって、行動原理があります。これを放っておくと、ぶつかって、なかなかコミュニケーションができないわけです。例えば、企業が技術を欲している際に大学はそれが提供できるという場合、「このような条件で企業の方は大学に支援してください」と、説明する能力が必要です。要するに、相手は何を欲しているのか、どういう原理で動いているのか、どこまで妥協できるのかを見極めながら、こちらの要望をきちんと説明する能力が必要だということです。これは、明らかにある種の言語能力が必要になってきます。要するに、日本語と英語とか、日本語と中国語といった、翻訳能力に近い能力だというふうに私は思っています。違うルールで、動いている組織の間を繋ぐために、頭の中で変換する必要があるわけです。これができるかできないかというのは非常に大きいです。これができる人というのは、私が見るところ、関西には非常に高濃度で存在しているというのが率直な印象です。ある種の商人文化の影響も間違いなくあると思います。アメリカの財団を見ても、こういう変換能力がある人というのは、商業民族出身の人で、この辺りの業務をやっていることをしばしば見かけます。やはり、狭い空間のなかで一つのロジックだけで動いている世界から来た人たちと、そういう商業文化の人たちとでは生き方が違うわけです。ですから、こういう商業文化の人たちは、違うロジックで動いている人たちの理屈を見極めて、どこまで妥協できるのかを交渉する力があるのだろうと考えます。
三つ目は、そこで得た情報をストーリー、成果物などに加工し、発信する能力が必要です。先ほど述べたように、どういう人たちを相手に発信するかによって、全然違ってきます。モードを切り替えていく必要が出てくるわけです。

この三つの能力を具体的な作業に落とし込みながら、「旧世代助成プログラム」の担当者の場合と比較すると図7の表のようになります。

  本多氏講演資料7
図7

ここでの問題は、同一名称の職種とは思えないくらい、必要とされる能力が違ってきていることです。経験的に見て、新世代のプログラム運営に対して柔軟に適応できるのは、現場経験の豊富な、人と会うのが苦にならない、そして、多くのソースから情報を取るのがうまいといった、要するに営業マン的なセンスがある人です。それこそ、商人文化の地域の人はみんなある程度、大なり小なりこの能力があると思います。

最後に、新世代型プログラムの課題解決、要するに、「もっと具体的に世の中を変えていこう」と考えている関係者は、「新世代型プログラムを導入するうえでの最大の変化の山場は何か」ということをお尋ねされると思います。参考までにお答えすれば、「ストーリーの作成」となります。要するに、課題にどう取り組むのか、どういう成果物を出して、どういうアウトカムを出すのかを、説得力のあるストーリーが作れれば、後はそれを実行するのみとなります。
後は、ひたすらもう執念でやるしかないという世界になってきますので、それはまた別の資質を要求されると思います。ですが、少なくとも、何が大事で何を解決する必要があるのか、それに対して何をどう取り組むのか、どういう成果物を出してどう変えるのか、このようなイメージを作れるかどうかが非常に重要です。特にURAの方々に対しては、この辺りを強調させていただき、お話を終えさせていただきたいと思います。

図表は本多氏講演スライドより抜粋



講演2:一研究者が考える研究の社会とのかかわり

AimotoSaburo
相本三郎氏

一般財団法人蛋白質研究奨励会/大阪大学前理事・副学長(基盤研究・リスク管理担当)

プロフィール:大阪大学蛋白質研究所において、有機化学的手法による蛋白質合成法の研究を行い、現在も国際的に発展しつつあるペプチドチオエステルを合成ブロックとする新しい蛋白質合成法の流れを作った。その業績により2007年に日本ペプチド学会賞、2011年に日本化学会賞を受賞。合成蛋白質・ペプチドを介して、構造生物学や生化学分野の研究者と共同研究を行い、バイオサイエンスの発展に貢献。2015年8月までの4年間、大阪大学理事・副学長として基盤研究の高度化に尽力。

はじめに

私は山口県の下松市で生まれました。この瀬戸内海の小さな町は、非常に風光明媚な所です。こういう所で育ちましたので、「どうしてこの世の中には、これほどいろんな生き物がいるのだろうか」ということを、子どもの頃から疑問に思っておりました。中学校に入った頃、理科の先生から、ロシアの科学者が「どうしてこの世の中に生命が現れたか」という内容の『生命の起源』という本を書いたと聞き、大変興味を持ちました。また私が小学校5~6年生ぐらいだったと思いますが、大阪大学に「蛋白質研究所」ができたというニュースを新聞で読みました。新聞記事には、第7代総長になられた赤堀四郎先生のことが初代の蛋白研(蛋白質研究所)の所長として紹介されていました。新聞記事には、「生命の神秘の解明、医学や薬学の進歩のためには、蛋白質を理解することが不可欠」といったようなことが書かれていたように思います。

このようなことがあって、将来大学へ行くなら大阪大学、と決意しました。蛋白研に入るにはどの学科を選べばよいかわからなかったので、会社に就職したくなったら生物学科よりも化学科のほうがよかろうと考え、化学科に入りました。

阪大に入ると、"研究者たるものは"というような自己実現的な教育をとことん受けました。阪大の方は、ほぼ全員ご存じだと思いますが、「勿嘗糟粕(そうはくをなむるなかれ)」という教育がなされます。要するに、「粕を一生懸命つついても無駄だ、常に独創的であれ」という意味です。これは、第2次世界大戦前、日本の科学技術がどんどん向上していって、欧米列強と競争するようになったときに、初代総長の長岡半太郎先生がこのような檄を飛ばしたと言われています。こういう教養教育を受けて、私の"研究"という人生が始まりました。

研究の動機、目的、テーマ

図1は、蛋白質科学の歴史と、私の学生の頃から定年になるまでの時間の流れです。

相本氏講演資料1
図1

研究を始めた当初は、世の中でどのような蛋白質関連の研究が行われていたのか、まるでわかりませんでした。そもそも「世の中にはなぜ生き物がいるのか」という疑問を抱き、赤堀先生のいらっしゃる阪大で蛋白質を研究すればきっと何かわかるだろうと思って阪大に来たわけです。赤堀先生はもう定年退職されて大学は辞めていらっしゃったのですが、アミノ酸や蛋白質の勉強をしたいと思い、4年生の研究室配属で榊原(榊原俊平)先生の研究室に行くことにしました(図2)。

相本氏講演資料2
図2

榊原研では、当時、大変ホットな話題であり、ペプチド化学の課題をほとんど解決できるのではないかと期待されていた「固相ペプチド合成法」の研究に参加することにしました。我々の体の中に一番たくさんある蛋白質で、コラーゲンというものがあります。そのコラーゲンの構造も、当時はまだ詳しく解明されていませんでした。榊原研ではコラーゲンのモデルペプチドを合成し、その物性を調べておりました。ある時、先輩の合成したコラーゲンのモデルペプチドが結晶となり、固相法で合成したペプチドが結晶化したと言うことで、国際的なトピックスとなりました。そこで、「相本はX線結晶構造解析用に重原子を導入したコラーゲンモデルペプチドを合成し、それを結晶化せよ」ということになりました。運のいいことに、修士論文を書き始めて、あと2週間ぐらいで書き終えないといけないというときに、結晶化に成功しました。先生は早速アメリカのペプチドシンポジウムで発表して下さいました。ペプチド合成が面白くなって、さらに続けていきました。

ところが、私が修士2年生のときに、榊原先生が蛋白研を辞められて、財団法人蛋白質研究奨励会に移られました。その後、株式会社をつくられて、世界のペプチド合成化学を先導されるような様々な仕事をされました。予算的にぎりぎりでも自分の稼いだお金で自分の好きな研究をしたいというのが、榊原先生の夢でした。そのために、大学を助教授のときに辞められました。榊原先生は、アミノ酸をくっつけてブロックをつくり、さらにそのブロックをつくって、大きなペプチドをつくる、液相法とよばれる方法を発展させ、1983年には、パラチロイドホルモンの合成に成功されました。
榊原先生は、他大学の基礎研究に対する支援や企業の医薬品開発に対する技術支援をされていましたので、他大学の先生や日本の各製薬企業のほぼ全社が研究室に出入りしていました。このような環境のお陰で、幸いにして、私は学生の頃から日本のほぼ全ての製薬会社に誰かは知り合いができました。
1983年に合成に成功したパラチロイドホルモンは、その一部の断片だけで骨粗鬆症に対する薬効があり、現在世界的には11億5,000万ドルの市場規模があり、日本国内では170億円くらいの市場規模を持って販売されています。今から30年前の基礎研究の成果がきちんと社会に貢献しているということです。

榊原先生が退職されたあと、後任として赴任された下西(下西康嗣)先生のお世話になりました。遺伝子工学は1970年頃から開発されていたにも関わらず、その当時はまだほとんど知られていませんでした。したがって、蛋白質の化学合成法の研究は、ライフサイエンスを研究する基盤として非常に重要でした。
ドクターコース1年生の夏、下西先生の上司である泉(泉美治)先生から、「大学院を中退して助手になれ」と言われ、助手をやりながら博士論文のテーマに取り組むことになりました。そして、「飯は食えるようにしてやったから、じっくり腰を据えてかかれ」という泉先生の号令の下、研究に取りかかることになりました。
そこで、蛋白質の化学合成が成功するための必要条件を明らかすることに取り組みました。非常に大量に安く手に入る天然のニワトリ卵白リゾチームを使い、化学合成の時に使用する様々な保護基というものを天然リゾチームに導入し、リゾチーム誘導体とします。これを、化学合成がすべて成功裏に達成された時に得られる生成物と見なし、この修飾リゾチームから保護基をすべて除去して元の活性のある蛋白質にへと誘導するために必要な条件を明らかにするという実験をしました。そうすると、ある条件下で除去できる保護基でないと、活性のあるリゾチームは得られないということが明らかになりました。それ以降、条件に合わない保護基を使って蛋白質の化学合成を進めていた人は保護基を変え、蛋白質の合成をするようになりました。この仕事で博士号を頂きました。

私が教養の2年生の頃に、赤堀先生から「このロシア語の本を訳したら出版してあげよう」と言われて翻訳した本が、助手になってしばらくした頃、本当に出版されました。(コアセルベート(モダンバイオロジーシリーズ(22)、共立出版,1974年)これには大変驚きました。今でも、レア本としてネットに出てきます。

最初のほうで、生命の起源という話をしましたが、助手になってしばらくして、学位を取った1977年に、「生命の起源の国際会議」が京都で開催されました。あの『生命の起源』を書いたオパーリン(アレクサンドル・オパーリン)博士も来日され、一週間ほど身近でお世話をさせていただく機会がありました。幸せな一週間でした。

その翌年から、泉先生の助言でアメリカに留学することになりました。留学先のRoswell Park Memorial Institute(ニューヨーク州バッファロー)は、終戦間もない時期に泉先生が留学されていたところで、泉先生のかつてのラボ仲間であったベロ先生とカルサ先生という二人の有能で心温かい先生に迎えられました。そこで、環状ペプチドとカルシウムイオンやナトリウムイオン等との相互作用の解析プロジェクトに参加し、ペプチド合成と結晶作成を担当しました。環状ペプチドの合成とナトリウム、カルシウム等との複合体の結晶化を半年で完了させ、それをX線結晶構造解析が専門の相棒のインド人留学生が解析し、すぐに複合体の結晶構造を出しました。お陰でいくつもの論文を出すことが出来ました。

泉先生は、「見てくるものは研究室じゃない、アメリカ人、アメリカ社会を見てこい」ということをおっしゃいました。アメリカがどうしてこれほどまでに強いのかを見てこいということです。このような訳で、様々なシンポジウムに出席するようにしました。あるシンポジウムで、イェール大学のフレデリック・リチャード先生が膜蛋白質についてすごく興味深い講演をされていました。そこで、リチャード先生に面接を申し込みました。

相本氏講演資料3
図3

リチャード先生には、「有機化学的手法をベースにして細胞の解析をしたい」と申し込みました。そうすると、「我々もそのようなことがしたいと思っていろいろ取り組んできたが、うまくいかなかった。我々の方法のどこが間違っていたと思うか説明してみてください」と言われました。私なりに黒板に書いて考えを述べましたところ、リチャード先生の研究室に入れていただけることになりました。
この有機化学的手法をベースにした細胞の解析というものは、どのようなことか説明します。まず赤血球というものがあります。赤血球は袋のような構造をしており、そこの膜にはいろんな蛋白質がくっついています。それが、どのような配置でくっついているのかを有機化学的に解析するということです。図3にあるテトラポットのような化合物を合成します。この分子は溶液中では回転しており、球体として振る舞います。したがって、腕の長さの違いにより球体の回転半径すなわち玉の大きさが変わり、それによってどこまで網の目状の蛋白質の奥に入って行けるのかが違ってきます。この分子の先端に、接触すれば速やかにと蛋白質に結合するような分子をくっつけておき、腕の長さの違いによって膜蛋白質が修飾される度合いがどのように変化するかを見、皆が出しているモデルの妥当性を評価するというものです。

この研究もスムーズに進み、1年で完了して論文を出すことが出来ました。この研究グループに入ったとき、「やはり、イェールの研究グループはすごい」と改めて思いました。研究室には、「WERMS(ワームズ)」という5人の教授の名前の頭文字をとったセミナーグループがあり、毎週、ディスカッションを行っていました。学生も5人の先生の内の複数の先生のもとで大学院教育を受けます。そこには、ポスドクもいて、これらの先生方の分野ではない人たちも入り込み、一緒に研究をしていきます。そのような環境で学生を育てます。学生も、非常に手際が良くアクティブで、ここでの1年間も非常に楽しく過ごすことができました。リチャード先生は、みんなから「フレッド」と呼ばれ、ズック靴を履いて実験を行っていますし、コンピューター解析もX線結晶構造解析も自ら行っていました。蛋白質の動きをコンピューターでシミュレーションして、教授自らがシミュレーションした蛋白質の揺らぎ構造を100枚くらいの紙に印刷してパラパラ漫画のようにして学生に見せることもありました。蛋白質が動いているように見えるわけです。一度見終わって、もう一度やると言うと、学生みんなが手をたたいて喜びます。それが、アメリカの大学の雰囲気でした。先生が真ん中に立って、研究を行っていましたが、決して上から目線ではありませんでした。みんなでワイワイ言いながら、研究に取り組んでいるという活気のある状況でした。日本はこれにはとても追いつけないのではないかという思いを抱きつつ帰国しました。
当時の同僚やラボの先輩は、その後、ファイザー研究所の所長を務めたり、イギリスのMRCの所長を務めたり、ETHで活躍したりなど、世界各国の研究機関で、みんなリーダーとなって、その国を引っ張りました。私が理事になる前まで蛋白研でやっていた研究も、そのときの人脈のお陰で、20数年間共同研究を続けることができました。

次に、私が大変お世話になったデレック・プライス先生という方のお話しをします。バッファローからイェールに移ったのが10月末で、家がほとんど空いていませんでした。その時に、プライス先生の家の2階の1室を貸す、という貼り紙を見つけ、住まわせてもらうことになりました。プライス先生は、私に日本語訳された『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』という本をくださいました。これはプライス先生自身が執筆された本で、図4のようなことが書かれています。

相本氏講演資料4
図4

プライス先生は、科学者の数と業績、投下する資金の相関を解析されていました。一番驚いたことは、先生が解析されている統計のなかで、昔のエリート養成の大学から大衆の大学になっていく過程で、学生数の変化のグラフに変曲点が生じますが、その変曲点で大学紛争が起こったのだとおっしゃったことです。
大阪大学の理事になってから、目から鱗が取れるような素晴らしいお話を聞かせて頂いた、当時の下宿の"大屋さん"であったプライス先生の名前をウェブで検索してみると、なんと写真付きで出てきました。プライス先生は、サイエントメトリックスという学問分野の創始者でした。図4の写真にあるのは、世界最古のコンピューターの復元物ではないかと思います。

帰国後は、しばらく助手をしていました。そのうち、遺伝子工学がさらに発展して蛋白質工学が生まれ、その手法により大腸菌を使って蛋白質が生産できるようになりました。そうすると、「蛋白質を化学的に合成するという目的は、どうあるべきなのか」ということになります。当時、私はまだ助手ですし、これからどうしようかと思い悩んでいましたが、正面突破することを決意しました。
蛋白質を合成することを目指して、「ペプチド化学」は始まりました。ところが、当時はまだ方法論もあまり発展しておらず、大学では10人が10年かけてやれば合成できるというような時代でした。それでは社会貢献にはならず、単に自己満足に過ぎないと思いました。そこで、ライフサイエンスやバイオサイエンスに役に立つような蛋白質の化学合成法の開発を目指そうと考え、今では「ライゲーション法」と呼ばれている合成法を検討することにしました。
ライゲーション法は、ジェイムス・ブレイクというUCSFの大学院生が始めたものですが、世間からあまり注目されておりませんでした。我々もちょうどその頃、ブレイクの仕事を知らずに、よく似たコンセプトでの研究を行っておりましたが、行き詰っていました。もうやめようかと思ったとき、ジェイム・ブレイクのライゲーション法を知り、我々の方法と足し合わせたら、すべてが突破できるのではないかと考え、さらに研究を進めていくことにしました。

1988年頃から、本格的に「蛋白質の迅速かつ精密な化学合成のための方法論的研究」という研究を始めました。その結果生まれたのが、ペプチドチオエステルを合成ブロックとするタンパク質合成法です。嬉しいことに、それ以降の新しい蛋白質合成法は、現在でも、すべてペプチドチオエステルを合成ブロックとしたものとなっております。

この時代、生物物理学の分野では、NMR(核磁気共鳴)やX線結晶構造解析装置などを使って、蛋白質の溶液中での構造や結晶構造を解明しておりました。もう一方で、分子生物学分野では、遺伝子解析をベースに、生命現象の解析が急速に進んでおりました。しかし、両者にはあまり交流がありませんでした。そこで、生物物理学者と分子生物学者に化学者も加えて、日本のライフサイエンスの発展のために、構造生物学グループを立ち上げようという計画が、蛋白研の京極好正先生をヘッドにして進められておりました。
以後、構造生物学の重点領域研究や特定領域研究に関係した研究者によって、定期的に勉強会や発表会が開催されました。イェール大学で経験していたことが、ようやく日本でもできるようになりました。
グループで研究を行う強みの例ですが、「蛋白なんて遺伝子操作でできるではないか」と言われる場面もあったのですが、我々は、遺伝子の専門家と共同研究を行っているため、正しく反論できました。構造生物学グループとの共同研究を介して、蛋白質合成法は格段に進歩していきました。そして、資金も十分あったので研究が進み、少しは世の中に貢献できる成果を出せたのではないかと思っております。

それからしばらくして、教授になりました。これから先、どのように研究を進めていこうかと考えておりました。すると、すでにご定年で辞められていた泉(泉美治)先生から再び、「腰が抜けるくらい空振りするつもりで研究しなさい」という檄を飛ばされました。つまり、「野心を持て。とにかく、失敗してもいいから自分の思ったとおりにやれ」ということを言われ、何か少し肩の荷が下りたような気がしました。そして、「どんな蛋白質でもこの方法を使えば合成できる」という、ジェネラルな蛋白質合成法をつくり出すことを念頭に、研究を進めていきました。

合成ターゲットですが、先ほど申しましたように、構造生物学分野の研究者たちと協議しながら、DNA結合蛋白質や膜蛋白質の膜貫通ドメインなどをターゲットとして選んでいきました。膜蛋白質は、精製することから何から何まで、非常に困難でした。現在も膜蛋白質の合成法は完成していませんが、必要なものを個別に課題を解決しながら合成しました。一方で、糖蛋白質の合成などは、分子量が2万ぐらいのものまで正確にできるようになっています。そこまで我々の方法は発展してきています。
一例として、化学合成した膜蛋白質の膜貫通ドメインであるアミロイドβ蛋白質を用いて、ニューヨーク州立大学、イェールの研究者たちと共同で、アミロイドβ蛋白質の会合構造の遷移と細胞毒性の相関関係の解析を行っております。その成果は大変多くの研究者の論文に引用されています。今後、認知症の解決のために、いろいろな示唆を与えてくれるのではないかと思います。

私は学生の頃に生命の起源うんぬんと言っていましたが、榊原先生に諭されて、ペプチドや蛋白質などの合成法の研究をしてきました。そして、その都度、いろんな関連分野の人と一緒に研究をさせていただきました。(図5)

相本氏講演資料5
図5

最終的には、先ほどもお話しした、アミノ酸が百二十数個くっついているニワトリの卵白リゾチームくらいであれば、現在だと4年生の学生でも1人で合成できるくらいに合成法は進歩しました。私たちの開発した方法では、保護基なし、あるいはごく少数の保護基を導入した状態で、ペプチド鎖を選択的に縮合することが出来るという利点があります。将来、蛋白質性医薬の開発等に利用することが出来るのではないかと期待しております。

医薬としての合成ペプチドのマーケットは、2020年頃には、2兆円ぐらいになるであろうと推測されています。こういうことに対して、現在、大学で行われている基礎研究は貢献するであろうと思っています。

大阪大学の研究力をいかに高めるか

私は自分の研究のみを行ってきましたので、基盤研究担当の理事就任の話があったときは、本当に面食らいました。人の研究を支援するということはやったことがないわけです。
私は、「科学は発見によって進歩する」と思っております。発見は、体系的知識、高い実験技術あるいは経験、鋭い観察力がなければできません。
また、研究者を育てるという営みは農業に似ていると思っております。農業には、まず、豊かな土壌が必要です。大学にもそのような土壌がないといけません。優れた種のような、学生や若い優秀な研究者を呼び込まないといけません。そのためには、それなりの広報、資金、奨学金等いろいろなものが必要です。それから、バランスの取れた肥料による適度でタイムリーな施肥、新鮮な空気と日差しが必要です。先ほど、イェールの研究者は凄かったと言いましたが、そこには、資金と共に新鮮な空気と日差しのようなものがあったように思います。
現在の日本の大学の状況を見ますと、このバランスが取れていないように思います。これをもう少し調和の取れたものにしないといけないのではないかと思っております。また、研究に没頭できる環境が大学ではだんだん少なくなってきているように思います。これにも大変危惧しております。特に教授は研究時間があまりありません。教授になったら大変だというのが現実です。
技術的な研究課題は、基礎研究のベクトル設定に大きなヒントを提供してくれます。しかし、最先端の基礎研究力がないと、人の役に立つような本当のイノベーションは生み出せないのではないかと思います。両者が手を取り合って、お互いの研究を高めていくサイクルをつくる必要があると考えております。

基盤研究担当の理事になり、若手支援プログラム、異分野交流プログラム、グローバル化プログラム、人事制度の柔軟化プログラムを実施しました。このようなプログラムは今後の日本の発展のために重要で、すべて成功してほしいと思っています。

「勿嘗糟粕」というお話をしましたが、あれは第2次世界大戦前の言葉であります。今は、大阪大学の山村総長の色紙にもありますように、「樹はいくら伸びても天まで届かない  それでも伸びよ  天を目指して」という勢いで研究に取り組まなければならないと思います。ここだと思ったら、みんなと協力しながら必死に伸びていく、ということが必要であるように思います。

図表は相本氏講演スライドより抜粋



質疑応答

司会:フロアから相本先生への質問を頂いています。研究の社会的な意義を意識されたのはいくつぐらいの頃ですか。また、どうしてそのようなことを意識するようになったのですか。

相本:実のところ、研究の社会的意義はあまり意識していませんでした。1902年に蛋白質化学が始まりました。「蛋白質を自由につくれるようなケミストリーを打ち立てる」ことが目的で、積極的に社会に貢献するというのとは少し違っていました。しかしながら、榊原(榊原俊平)先生がやられたみたいに、気がついたら、もうすぐで2兆円の産業に達するというようなケミストリーを本当にきちんとつくってきたということで言えば、結果的にペプチドコミュニティーとしては社会に貢献できたとは思います。

司会:関連した質問を頂いています。ペプチド化学の学問が日本で下火になっていた頃に、欧米では研究が続けられていたということですが、どうして欧米と日本で考え方が違ったのでしょうか。

相本: アメリカでもどちらかと言えば、下火になりました。1984年にメリフィールド(ロバート・ブルース・メリフィールド)が「ペプチド固相合成法」を開発し、ノーベル賞をとりました。それで多くの研究者は、この分野はもう終わったと考えました。その後、私たちが、チオエステルをブロックにしたら、本当に蛋白質を合成することができるという話をしたときに、メリフィールドの流れをくむ研究グループも50個以上アミノ酸をくっつけるテクノロジーは、まだきちんとしたものがないと言い出して、一緒にライゲーション法の流れに乗ったというような感じです。世代が入れ替わったのではないでしょうか。ドイツはもともと、"ダーティケミストリー"だと言って、固相合成法を好んでいませんでした。スイスをはじめとしたヨーロッパの国では、他人の意見にあまり影響されずにペプチド医薬の開発に向けてこつこつと研究を続けておりました。そういうところの製薬企業は、非常に奥深いです。

司会:今のお話に関連して、本多さんにお伺いします。助成財団でプログラムを設定するときにその方向性を見誤ると言いますか、ある分野に予算を流さなくなることは起こり得ると思います。何かご経験上で感じていらっしゃることがあれば教えてください。

本多:プログラムを設計する人の出来に依存します。先ほどの相本先生のお話のとおり、情報のソースをどれだけ広く持つかということが大切です。人の話を鵜呑みにする人もいれば、その裏を取りにかかる人もいます。助成プログラムに関わる人は例外に着目することが重要になります。例外というのはひょっとすると将来何かを成し遂げるのではないか、というようなことです。その例外に目配りできる人が必要です。相本先生が、スイスは奥が深いとおっしゃっておられました。例外に目配りができる人が何人かいるのだと思います。反対に、「世間で言われているから、こういうふうにやろう」というような方法では、結果的に空振りになりやすいと私は見ています。

司会:本多さんへの質問です。新世代助成プログラムは具体的なテーマ、ストーリーを前提としているとのことですが、そうなると基礎研究の助成にはあまり向いていないのではないでしょうか、というコメントを頂いています。おそらく、民間財団でも、バイオ系、医療品や薬品等では結構大きな基礎研究に対する助成もあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

本多:社会への還元とか実装といった部分は、医薬品開発のように企業がやってくれる分野が相当あると思います。ところが、そうでない分野もたくさんあります。つまり現場を回って社会を動かそうとする実装部隊がない企業があるわけです。その場合は、研究者や我々のような助成財団が動かないと社会実装に至らないことが多いということです。
基礎か応用かの問題は研究だけでなく必ず生じます。仏教の世界もそうですね。ある種の仏教の原理的なところを追及する空海と、困っている人たちに理解してもらうためにもシンプルな教義にすべきと考える親鸞のようにです。人間の知の仕組みは、常にこの両極があるのだと思います。「抽象的な世界像を明らかにしていこう、世界を理解していこう」という人と、「より困っている人たちのところへ行って、直接働きかけよう」という人がいるのだと思います。一番大事なのは、その双方の間でいろんな話し合いが行われることです。
相本先生の話を聞いて一番感心したのですが、デレック・プライス先生のような方は、やはり実際にヨーロッパに行くといると思います。ただ、私はプライス先生のような研究ができるわけではないので、やはり現場に行った方がいいと思っています。このように両極がありますので、私は常にその両極を見たいと思っています。

司会:科研費はボトムアップ型(研究者の自由な発想に基づく)という意味では、旧世代のプログラムに近い助成だと思います。一方で、公的な助成機関であるJSTのCRESTやさきがけのようなものはトップダウン型(助成する側がプログラムを設定する)になっています。おそらく、公的な助成機関でも民間と同じことが起きつつあると思います。最近は国の研究開発評価に関する大綱的指針ができています。例えば、JSTやJSPSも自分たちがつくったプログラムでどういうアウトカムが出たのかが求められるようになっています。国の予算が切迫していることもあり、20年前のような配分型に戻るということは考えられないのでしょうか。

相本:大学の研究にはいくつかの発展段階があると思います。一番ベースのところは研究者の自由な発想の所ですね。ここはなるべく広くボトムアップ型で助成する。そして、研究者も5年毎ぐらいにより高度なものに取り組んでいって、最後の方はトップダウン型で助成するという形です。このような段階があることが自然な気がします。スタートのときには、そんなにお金が必要なわけではありません。少しのお金をコンスタントに使える環境をまずつくってあげるというようなことが非常に重要です。競争的なものと、みんなにあまねくというものの双方をうまくシステムとして機能させることが一番重要ではないかと思います。

本多:助成をするときに研究者の自由な発想に任せるというのは、聞こえは良いですが、助成する側の担当者が勉強していない言い訳に使われる場合もあるので注意が必要です。助成する側も助成金を出す以上、研究者と同じぐらいは勉強する必要があると思います。個別の研究の細かなところではなく、分野の鳥瞰的な姿は知っておく必要があります。

司会:大阪大学にも学内に研究者のための助成があります。それを作られていた理事としてのご意見をお願いします。

相本:大学がやることですから、そんなに大きなお金は出せないわけです。国からもらった数億の原資の一部を使って複数の助成プログラムを作り、ひとつの助成プログラムで複数のグループを採択する。そうすると、1グループ当たり年間数百万で、そのようなグループを10~20グループ採択するということになるわけですよね。そうすると、この助成では研究の助走を支援して、その後は大きな外部資金に応募してくださいということになります。大きなところを大学として支援したいのであれば、やはり100億ぐらいのお金が必要なのではないかと思います。
また、阪大にいい学生を呼び込むとなると、それなりの奨学金や環境など大学独自の判断で使えるお金が必要となります。それも毎年100億ぐらいは必要になります。
ちなみに、イェール大学の自己資金は3兆円ぐらいあります。3兆円を1%で回しても、相当な額になります。彼らはプロを雇って2~3%で回しています。ハーバード大学も3.5兆円ぐらいあります。それを使って、人を集めて、研究をしたり環境の改善を行ったりしています。そのような大学と戦うためには自己資金が必要になります。私自身、財団に移ってから大学への支援を考えてはいるのですが、限界があります。

本多:今話があったように、お金のかかる分野はなかなか難しいのですが、私からは別の視点の話をします。ここにURAの方がたくさんいらっしゃいます。URAの方は、いろんなお金を使って、様々な研究支援をされているわけですが、研究者と同じ土俵には上がらないでください。URAの中で準研究者のような感じになっている人をよく見かけます。それよりURAにとって必要なのは人脈です。なんとか広い人脈をつくって、そこから一次情報を取って、次にどういう研究テーマが必要なのか、何をやらなければいけないのかを考える人材になっていただきたいと思います。これはお金がかからない話です。

司会:URAのお話がありましたが、事務職員はどうでしょうか。URAよりも組織での制約があるのではないでしょうか。

本多:立命館大学や同志社大学などの事務職員の動きはすごいです。自らトヨタ財団に乗り込んで来ていろんな情報を取りにかかったりします。それから、立命館大学が大分県にアジア太平洋大学をつくっていますが、あの辺りの事務職員の気合いの入り方も他とは違いますね。
要するに、URAと競争できるような事務職員を抱えていて、その事務職員がいろんなところに出入りして新しい資金はないか、ということをしているわけです。自らの足で動いています。あの活力はすごいです。失礼ながら旧帝大の事務職員の方にこの活力はほとんど感じません。自分のルーチン業務をきちんとこなすことに徹しているのではないでしょうか。大学はこれからお金がかかるのは当然です。比較的お金がかからない方法でブレークスルーを見つけようとしたときに、私立大学の事務職員をみならうことは重要であると思います。同じ日本の大学の事務職員の間でも、その位ギャップが開いていると思ってください。

相本:事務系の職員の方にも優秀な方は多くおられます。今回の講演に積極的に参加されている人というのは、「大学をなんとかしないといけない」という意識を持たれている方だと思います。一方、そう考えない職員も居るでしょう。そういう人と一緒にやっていくうまい仕掛けをつくることも重要ではないかと考えます。
確かに今の若い人はすごく優秀です。大学に入ってこられる事務職員の方の能力はすごく高いです。そのような若い事務職員と一緒になって何が出来るのかということをURAの方がいろいろと企画していただければと思います。

本多:URAの方が成しえることは非常に大きいと思っています。お金をそんなにかけなくても情報共有を進めていくとか、研究者とのネットワークをつくるということが出来ると思います。二つの分野を融合して新しい研究体制を作るというのはトップダウン的にもできますが、研究者間が自ら連携する、そのようなきっかけを作ることもURAの活動として非常に可能性を感じています。

司会:本多さんのお話で、新世代助成プログラムでは社会的価値を重視されるということでした。一方、大学や学術分野においては学術貢献が求められています。研究者としての評価も学術貢献が重要になります。ある意味で社会貢献と学術貢献の板挟みのように見えますが、どのように考えていけばよいのでしょうか。

本多:研究の分野には、一つ一つ何かを解明していき論文を書くということができるタイプの人と、映画で言うプロデューサー的なことができるタイプの人がいるわけです。
映画のプロデューサーの仕事は、「このテーマは非常に大事なので、人材と資金を集めて、何か一つの仕組みをつくろう」ということを考えて実行することです。俳優や監督とは全く別の仕事です。欧米と比べると、日本は監督や俳優を重んじて、プロデューサーをあまり尊重しない文化です。
アメリカの野球を例にとっても、監督や選手の後ろにジェネラルマネージャーという仕組みがあります。要するに、一つ後方にいて、全体を見回しながら、きちんと人の動かし方を考えている人になります。
日本ですとそのようなことを現場の人に考えさせるわけです。現場の人に考えさせてもいい場合もありますが、全体を見回してテーマを決めるのは、別の素質ではないかという気がします。
ですから、日本の大学でも、プロデューサー向きの人がいれば力の強いポジションにつけるべきです。そして、人脈作り、新しいテーマの発見、資金調達などをやらせるというのも発想としては十分あると思います。ところが、日本人はこの発想をあまり好みません。アメリカの大学では、プロデューサー役というのが後方にいて、いろんな資金の配分などを考えていることをしばしば見かけます。このように考えると、現場の研究者は学術貢献をして、プロデューサーは社会貢献をすると考えることが出来ます。板挟みのように見えるのは、現場の研究者がプロデューサーの役割も持っているからではないでしょうか。

相本:まったく同感です。新しく理事になられた小林傳司先生の書かれた「エンタープライズとしての科学技術」という本がありますが、「飛行機はパイロットだけで飛んでいるのではない。整備士や地上職員らからなる航空会社として飛んでいるのだ。研究も同じで研究者(パイロット)だけで研究が出来ているのではない。」というようなことが書かれています。研究者は現場のプレイヤーとして重要なことは確かです。ですが、その背景にある人の重要さというものをもう少し認識しないといけません。
私が理事のときに、大阪大学国際共同研究促進プログラムでも、お金は全て人を呼ぶために使うのではなく、マネジメントするためにも少し取っておく必要がある、という話をしました。マネジメントをどうするかによって、国際共同研究促進プログラムの成果が変わってくるのではないかと思います。ぜひとも、その辺り、現役の人に考えていただければと思います。

司会:最後になりますがこのような質問を頂いています。価値のあるアウトカムというのは何なのでしょうか。研究の価値はどのように考えたらよいのでしょうか。研究費が投入されているわけですからその効果を計る必要がある、というところに関して、最後にお二人からコメントいただければと思います。

相本:非常に基礎的な研究をしている人間から言うと、価値というのは、新しいコンセプトをつくるということです。「こんなものできるわけがない」というようなものを、パッと乗り越えるものを提示することだと思います。榊原先生が、5つぐらいアミノ酸がくっついたものを更にくっつけながら、大きくしていきました。最後に我々が行った50個ぐらいのアミノ酸をくっつけて100個にするということは、「こんなことできるわけがない」とみんな思っていました。ところが、我々はそれが出来ることを示しました。基礎研究分野で価値とはそのようなものだと思います。

本多:今、相本先生は空海の立場からお話しになられました。私の話は親鸞の立場からになります。困っている人たちが一定程度いて、それに対して、その人たちの生活がこれ以上悪くなることを防ぐことのお手伝いができた、ということが、価値だと我々は考えます。基礎研究の立場、応用研究の立場双方がありますので、これは相反するものではないと考えます。

2018年3月24日(土) 更新
ページ担当者:経営企画オフィス 北室